今までにいただいた質問と、私の答えです。なにぶん勉強しながらですので間違い、思い違いもあると思われます。どうぞお気付きの方は教えてください。また勉強します。
Q
仏様の三十二相ってなんですか?
A
仏様は私たち人間と違い32の優れた相と80の特徴(随形好)があります。三十二相を一つずつ挙げると
1,足の裏が平ら
2,足の裏に千輻輪がある
3,手足の指が長い
4,足幅が広く丸い
5,指の間に水掻きみたいな膜
6,手足が柔らかい
7,足の甲が高く盛り上がっている
8,膝が鹿のように細く丸みがあり美しい
9,手が膝にと届くほど長い
10,陰相が隠れている
11,身長と両手を広げた長さが同じ
12,体の全ての毛が上を向いている
13,1つの毛穴に1本の毛が生えている
14,全身が金色に輝いている。
15,四方に一丈の光を放つ
16,肌がきめ細かく塵も汚れもつかない
17,手足首筋に肉が円満につき柔軟
18,脇の下に肉がついて凹んだところがない
19,上半身に威厳があり獅子のよう
20,身体が大きい
21,肩が丸く豊か
22,歯が40本あり白く清い
23,歯の大きさが同じで歯並びが美しい
24,上下4本の歯が尖って牙のよう
25,獅子のように頬がふくらんでいる
26,何を食べても最上の味がする
27,舌は柔らかく顔を覆うほど大きい
28,声は梵天のように大きく美しい、聴くものを感嘆させる
29,眼は蓮華の青い大きな葉のように紺青
30,睫が牛のように長く美しい
31,頭の頂の肉が盛り上がっている
32,眉間に長さ一丈五尺の白い毛があり右巻きでまとまっている
であります。
八十随形好には「歩き方が象のようにゆったりしている」「耳たぶが輪状に長く垂れ下がっている」などがあります。
(平成20年5月)
Q
「麻呂子親王」って誰ですか?
A
當麻寺を創建した人物で、用明天皇の第三皇子、聖徳太子の弟とされています。
用明天皇と穴穂部間人皇女の間に、聖徳太子・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子、用明天皇と葛城直広子の間に當麻皇子と5人兄弟で来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子・當麻皇子の誰かが麻呂子親王と名乗ったのではないかと推察されます。特に来目皇子・殖栗皇子のどちらかではないかという説を聞いたことがあります。
坂本太郎「聖徳太子」によると聖徳太子の子に「麻呂古王」と系図にあります。もしかしたら子だったのかも。古代の系図は不明の点も多く、また養子縁組や親族結婚もよくあったみたいなので難しいですね。
(平成20年5月)
Q
「當麻曼陀羅」と「當麻曼荼羅」。
どちらの「マンダラ」の表記が正しいのですか?
A
「マンダラ」の「陀」と「荼」ですね。
これは実は難しい問題なんです。下に説明しているように當麻寺は浄土宗と真言宗の二宗で構成されています。浄土宗は中将姫の織られた国宝綴織當麻曼陀羅の箱の表書きに「當麻曼陀羅」と書かれていることから、「當麻曼陀羅」を正式としております。また、この「陀」は當麻曼陀羅に顕されている西方極楽浄土の教主「阿弥陀仏」の「陀」であります。當麻曼陀羅など極楽浄土を顕した曼陀羅を「浄土曼陀羅」と呼び、そのときには「陀」がよく使用されます。
真言宗は「金剛界曼荼羅」「胎蔵界曼荼羅」の二つのマンダラを信仰しております。その二つは大日如来を中心としたこの宇宙を顕したもので、「たいままんだら」とは異なるものです。この「曼荼羅」の字を当てて「當麻曼荼羅」を正式としております。
問題なのは「たいままんだら」が真言宗伝来以前から日本に存在し、古来は「たいままんだら」と呼ばれていなかったということです。中将姫が織られてすぐのころは「観無量寿経浄土変相図」とだけ呼ばれておりました。長い名前ですがその意味は「観無量寿経に説かれている阿弥陀如来の極楽浄土を分かり易くあらわした図」というところでしょうか。しかし一般的に覚えにくい。そのうち真言宗が伝わりマンダラ信仰が根付いてくると、當麻にも昔から同じような物があるぞと誰が呼び始めたのかはわかりませんが「たいままんだら」と呼ぶようになった。
経緯から考えると「曼荼羅」のような、残っている箱書きから考えると「曼陀羅」のような。。。どちらとも言えないですね。出版物も両方存在します。ややこしいからどちらかに統一しろとお叱りを受けることもありますが昔からの伝統を統一するのが全て正しいとは思えません。違うのも長い歴史がなせる業だと思っていただきたいのです。
補足になりますが、當麻寺の朱印には「蓮糸大マンダラ」と書かれています。この「マンダラ」の字、真言宗が当番の時は「曼荼羅」、浄土宗が当番の時は「曼陀羅」と書き分けていますので、既に朱印をお持ちの方は自分のはどっちだろうと確認してみてください。また、両方集めるのも通ですね。
(平成20年1月)
Q
「當麻寺」と「当麻寺」。
どちらの「たいまでら」の表記が正しいのですか?
A
「當麻寺」が正解です。
「当麻寺」の「当」は「當」の新漢字です。「当」という字ができる前からお寺はありますので「當麻寺」が正しいのです。住所も「葛城市當麻」合併する前は「當麻町當麻」、小学校も「當麻小学校」です。
ただし、駅は多くの人が利用しますので「当麻寺駅」。新聞にいたっては「當」の字を一切使わない新聞社が増えています。
(平成19年10月)
Q
當麻寺はいったい何宗なんですか?
A
現在、浄土宗と真言宗の二宗で守るお寺です。
通常一つのお寺に一つの宗派というのが現在の常識のようですが、當麻寺はそうではありません。これにはお寺の歴史と信仰が深く関係します。創建当時、當麻寺は南都六宗の一つ「三論宗」のお寺でありました。中将姫の時代も三論宗です。しかし、後に真言宗を伝えた弘法大師が當麻曼陀羅を21日間参籠されたことから、高野山とのつながりができ、そのうちに真言宗の僧侶が常駐するようになります。これが平安時代のこと。鎌倉時代になると浄土宗の祖師法然上人の「中国唐の善導大師が作成された阿弥陀浄土変相図と、日本の中将姫が作成した當麻曼陀羅がまったく同じであった。」とのお言葉をうけ、法然上人の弟子証空上人が當麻寺を訪れ當麻曼陀羅を研究し、善導大師の「観無量寿経疏」に基づいて創られたものであるとつきとめ、日本中に模写本を広めたことから浄土宗とのつながりができました。ついに南北朝時代に京都知恩院から本尊法然上人像を遷し、當麻寺境内に奥院が創建されると浄土宗の大和本山としての地位を確立していきます。当初の三論宗は時代と共に衰微し、ついには消滅。現在の真言・浄土二宗の寺院となりました。
実は現在のように寺院の宗派が決められたのは江戸時代のことで、それ以前寺院には宗派が決まっていませんでした。住職が亡くなると次の住職を信者が探してくる。その僧が比叡山出身だと天台宗に、高野山出身だと真言宗にという具合。江戸時代に幕府によって宗派が決められた。そのときの寺院の宗派がほとんど現在各寺院の宗派になっています。當麻寺は宗派にも昔の名残を残しているのです。
といいましても、當麻寺の僧侶が真言宗と浄土宗の資格両方を有しているのではありません。當麻寺内にある塔頭寺院が真言宗か浄土宗に属し、その住持も同じです。當麻寺の塔頭中、西南院・中の坊が真言宗寺院、奥院・護念院が浄土宗寺院です。そしてこの4ヶ寺が年番で當麻寺の住職を兼ねます。今年浄土宗なら来年は真言宗と一年ごとに宗派が入れ替わる珍しいお寺、これが當麻寺です。
(平成19年10月)
Q
浄土庭園の巨石はこの辺りの石と異なっているように思うのですが?
A
よくお気づきになられましたね。
そうです。近畿地方の石ではありません。「太閤石」といいます。昔、豊臣秀吉公が大阪城を築城するにあたり、西国から巨石を集めました。浄土庭園の石はその産地の一つ、湯布院から運ばれたものです。由布岳の溶岩が固まってできる特異な色・形を庭園に利用したのですね。
現在、湯布院ではもう石を取ってはいけないそうですよ。
Q
なぜ牡丹が植えられるようになったのですか?
A
奥院第五十八世察聞上人が大方丈の仏間の絵天井に描かれていた牡丹を仏様へのお供えにしようと、境内に植えたのが始まりです。
だんだんと増えて、今のように牡丹の有名なお寺になりました。
Q
練供養のお渡りをしておられる菩薩様方のお姿は、それぞれ異なって見えますが、お名前があるのですか?
A
はい。当然お一人お一人、お名前があります。
1,観世音菩薩・・・蓮台
2,大勢至菩薩・・・合掌しておられます。
3,薬王菩薩・・・幡播
4,薬上菩薩・・・玉播
5,普賢菩薩・・・幡蓋
6,法自在菩薩・・・華鬘
7,師子吼菩薩・・・乱袙子
8,陀羅尼菩薩・・・舞
9,虚空蔵菩薩・・・腰鼓
10,徳蔵菩薩・・・笙
11,宝蔵菩薩・・・笛
12,金蔵菩薩・・・筝
13,金剛蔵菩薩・・・琴
14,山海恵菩薩・・・□
15,光明王菩薩・・・琵琶
16,華厳王菩薩・・・_
17,衆宝王菩薩・・・□
18,月光王菩薩・・・振鼓
19,日照王菩薩・・・鞨鼓
20,三昧王菩薩・・・天華
21,定自在王菩薩・・・太鼓
22,大自在王菩薩・・・華幢
23,白象菩薩・・・宝幢
24,大威徳王菩薩・・・曼珠
25,無辺身菩薩・・・香
26,地蔵菩薩
27,龍樹
28,天人
(※□はパソコン上に漢字が存在しません。)
Q
他寺院では塔上の相輪は9つであるのに、當麻寺のそれは東西塔とも8つであることには何か訳があるのでしょうか。
A
結論から申し上げますと、由来はわからず、学術的にもはっきりとした意味づけができません。
お気づきのように、一般的に相輪は九輪のものが多数です。ですから相輪のことを九輪と呼んだりもします。しかしながら相輪は9つでなくてはならないという決まりがないのも事実なんですね。例えば多武峯の十三重塔は相輪が7つです。ネパールのカトマンズにあります仏塔には写真でしか確認できませんでしたが10輪以上あります。
相輪はインドのストゥーパ(仏舎利塔)にある傘蓋がもとになっていると思われます。傘蓋はその名のとおり輪ではなく平らな傘状をして、ストゥーパによって重なる数が異なっております。ストゥーパが中国、朝鮮、日本へと伝わってくるうちに現在の塔の形になり、相輪も定着してきたようです。意味は後からついてきたと思われます。現在一般的に調べると五大如来+四大菩薩で9つと説明されています。これは密教の胎蔵界曼荼羅に基づいての説明のようです。しかし、當麻寺をはじめ、法隆寺、法起寺などの塔ができたのが飛鳥、天平時代。密教が日本に伝来したのが平安時代。このことから5如来+4菩薩の説明は後付けであることがわかります。しだいと九輪が定着し、それに意味をつけたのでしょうね。
ただ8という数字は気になります。塔を見ても三重、五重、七重、十三重というように奇数がほとんどです。偶数の8輪は常識から少し外れていると言ってもいいでしょう。建立されたときに何らかの意図があったと考えられないこともありません。
ここからはあくまで想像です。仏教にゆかりのある8を集めてみました。
1.塔は仏舎利を収める為に作られました。仏とは釈迦牟尼仏、お釈迦様です。お釈迦様が80年の生涯を終え涅槃に入られたとき、周りには8本の沙羅双樹がありました。
2.お釈迦様がお説きになられた教えの根幹は「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つです。「涅槃」とはお釈迦様がなくなられることを示しますが、本来はニルバァーナ(迷いのなくなった境地)のことです。ですから「涅槃寂静」とは「煩悩の炎が吹き消された悟りの世界は静かな安らぎの境地である」となります。そこに到る実践徳目に八正道を挙げておられます。八正道とは正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。
と、この二つは舎利=釈迦の遺骨→涅槃と連想できます。
3.當麻寺の本尊は弥勒如来です。弥勒如来は未来仏で現在は修行中の弥勒菩薩。ですから通常表現されるお姿は菩薩様の姿をしておりますが、當麻寺は珍しく仏になったときの姿をしておられます。ではいつ仏になるか?阿含経には人の寿命が8万歳になったとき、お釈迦様より56億7千万年後と説かれております。
4.極めて俗世的な想像をしてみると、聖徳太子が法隆寺や法起寺、四天王寺を建てた。塔が9輪であった。當麻寺は弟の麻呂子親王が建立し、子孫の當麻国見が伽藍を整えた。兄に遠慮して相輪を1つ減らした?
いずれにしても現在まで由来が伝わっていないのです。
Q
水煙が魚骨型であることにも理由があると思われますが、どんな謂われがあるのでしょうか。
A
これもはっきりとはわかりません。
ただ水煙と名前のとおり、火を遠ざけたい思いで水煙はついていると言われます。天女をあしらったものもありますが、一般的には波紋のような形式をしています。魚骨型とつけられた名前通り、水と切っても切れない魚を表しているのか、海のような直線的な波を表したのか。。。