奥院が當麻寺に建てられたのは今から650年前のことですが、當麻寺そのものの歴史は少なくとも1400年前の聖徳太子の時代に遡ります。
當麻寺は推古天皇20年(西暦612年)聖徳太子の弟である麻呂子親王(まろこしんのう)により河内国山田郷に創建されました。創建当時は萬法蔵院禅林寺と呼ばれていました。麻呂子親王の孫であり、壬申の乱で功績を立てた當麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇代(西暦680年頃)現在の場所に遷し、寺号を「當麻寺」と改めて、以後は當麻氏の氏寺であったと考えられています。
▲日本最古の石灯籠(重要文化財)
聖徳太子の弟麻呂子親王によって河内国山田郷に創建された當麻寺。当時は萬法蔵院禅林寺と号していました。現在も正確な場所は特定されていませんが、出土品などから山向こうの大阪府南河内郡太子町山田が有力視されています。太子町には推古天皇陵や聖徳太子陵があり所縁が深く、聖徳太子の創った日本最古の国道「竹内街道」に面した寺院であったのではないかと推測されます。
▲平成30年、国宝「西塔」の大規模修理の際、塔の頂上部より日本最古級の仏舎利容器が発見されました。
同時期には當麻寺の周辺に石光寺、加守廃寺、只塚廃寺も建立されています。万葉集に読まれる二上山。都から見て二上山に夕日が沈む當麻の地が一大信仰地域に変貌していく様子が見てとれます。このことは、後に極楽浄土信仰の聖地になっていくことに繋がっていくのです。
▲奥院からは東塔・西塔、その他の寺院が望めます。
奈良時代に入ると東西両塔の建立が始まります。まずは東塔(国宝)が奈良時代中期に完成し、続いて西塔(国宝)の建立が行われました。国家事業として行われる寺院造営ではなく、當麻氏という1氏族の寺院造営ですから建物の建立には時間がかかったことが推測され、西塔の完成をみるのは平安時代になってしまいます。いずれにしても様々な職人が出入りし、次々と堂宇が新築されていく活き活きとした當麻寺の姿が想像されます。
そして奈良時代中期には、後の當麻寺の運命を左右する大きな出来事がおこります。中将姫によって當麻曼陀羅が織り上げられたのです。
▲宝物館にある中将姫の像
當麻曼陀羅を織り上げた中将姫は、藤原鎌足の曾孫であり右大臣藤原豊成の娘として生まれました。幼くして実母と死に別れた中将姫は、継母に疎まれ、14歳にして雲雀山にて命を絶たれそうになりますが、継母の命に背いた武士嘉藤太によって匿われます。
この世の無常に翻弄された中将姫は安楽浄土を求めて當麻寺に入り、出家します。称讃浄土経を一千巻写経するなど仏道に励まれた中将姫のもとを訪れた一人の老尼の言葉に従い、畿内各地より蓮を取り寄せ蓮糸を紡ぎ、石光寺の井戸で糸を染め、綴れ織りで織り上げたのが「當麻曼陀羅(観無量寿経浄土変相図)」です。
中将姫は29歳で極楽往生を遂げ、その臨終の様子は毎年4月14日に當麻寺で行われる練供養にて今も伝わっております。
當麻寺の本尊である「當麻曼陀羅(観無量寿経浄土変相図)」は天平宝字7年(西暦763年)に中将姫によって織成されました。この當麻曼陀羅は現存し、「根本曼陀羅」「古曼陀羅」と呼ばれ国宝に指定されています。昭和20年に行われた調査にて綴織で織られていることが判明しており、平成25年の最新の調査でもその事実が再確認されました。
現在當麻寺には天平時代の「根本曼陀羅(国宝)」、室町時代に行われた第二回転写の「文亀本(重文)」、江戸時代に転写された「延宝本(県重文)」と「貞享本(重文)」を蔵しています。現在、曼陀羅堂で文亀本を、奥院宝物館で延宝本を拝観することが可能です。
また、奥院には中将姫が織り上げた「綴織」の技法で再現された「綴織當麻曼陀羅」があり、11月1日~10日に特別に公開されています。